「まだだけど」と彼は答えた。その言葉を聞くやいなや、弥生は眉をひそめた。反射的に、「友作が忘れたのかな?彼のためにホテルを予約するくらいのことを忘れるなんて」と思ったが、言葉が喉元まで出かかったところで、今日は友作がオークションに忙しかった上、自分の子どもたちの世話もしてくれていたことを思い出した。瞬時に、彼を責めるのは筋違いだと気づき、自分にも責任があるのだと考え始めた。そう考えた弥生は、すぐに携帯を取り出して言った。「じゃあ、私が今ホテルを予約するね。どこに泊まりたい?」しかし弘次は、動かずに彼女をじっと見つめたままだった。「この部屋は居心地いいと思うけど」弥生は一瞬動揺して、驚きの表情を浮かべた。そんな彼女を見て、弘次は笑いながら言った。「どうせしばらくここに滞在するつもりだし、友作からここに貸し出し可能な部屋があるって聞いたんだ」「そう......そうね」「オーナーの連絡先を知ってる?」「千恵に聞くつもりだが、もう遅いから、明日かあさってになる。借りた後も準備が必要だし」「うん、それもそうだな。じゃあ明日、時間があったら一緒にスーパーに行って買い出しを手伝ってくれないか?」こんな提案をされては、弥生も断ることはできず、仕方なく頷いた。「いいわ」数秒後、弥生は再び口を開き、言った。「じゃあ、今夜のホテルを予約するわね?」「いや、必要ないよ」弘次は立ち上がりながら言った。「そういうのは友作に任せればいい。もう遅いから、邪魔するわけにはいかない」結局、弘次は引き下がることを選んだ。「焦りは禁物だ」と、彼は心の中で思った。別れ際、弥生は彼に言った。「千恵から連絡先を教えてもらったら、あとで送るわ」弘次は頷いた。「色々迷惑をかけて、ありがとうね」「とんでもないわ。私のほうがお世話になっているのに、このくらいならなんでもない」彼女は玄関で二人を見送った。その後、千恵が急に背後から現れた。「友作ってすごいわね、ひなのと陽平をもう寝かしつけたんだ」その言葉に、弥生は一瞬動きを止め、微笑みながら答えた。「確かに。でも、もう寝る時間だからね」「友作によると、陽平とひなのは、あなたが帰るまで起きていようと頑張ってたけど、結局遅くなりすぎて我慢できずに寝ちゃっ
弥生は陽平の言葉を聞いて心が癒されたように感じた。彼女は手を伸ばして陽平の頭を撫でながら、柔らかな声で言った。「ママは帰ってきたから、安心して寝ていいのよ」陽平は彼女の胸に寄り添いながら、ぱちぱちと目を瞬かせた。「ママ、今夜は一緒に寝ていい?」弥生は大きなベッドを一瞥し、心の中では既に了承していたが、口では息子を少しからかうつもりだった。「でも、陽平ちゃんはもう5歳でしょ?そろそろ一人で寝るべきじゃない?」その言葉を聞いた陽平の顔には、がっかりした表情が一瞬浮かんで、ママが許可してくれないと思ったのか、しばらくしてからおとなしくうなずいた。「わかった、ママ。自分で寝るよ」元々は少しからかうつもりだったが、彼の失望した様子を見ると、弥生は少し悪者になったような気がしてきた。そう思うと、弥生はすぐにこう言った。「冗談よ、ママはただふざけて言っただけ。今夜は寒いから、一緒に寝ましょう」陽平の目には、期待と喜びの光が一気に戻ってきた。「本当?」「本当よ。先にベッドに行ってて、ママはお布団を持ってくるから」陽平は少し考えた後、自分からベッドに向かうことはせず、真剣な目で彼女を見つめながら言った。「ママが布団を持ってくるなら、僕は枕を持っていくね」「いいわ、行きましょう」弥生はそう答えて、布団を取りに行き、陽平は枕を持つためについてきた。二人で帰る途中、弥生は外の玄関から聞こえるドアが閉まる音を耳にした。その音は玄関からのように感じたが、彼女はその場では何も言わず、陽平を部屋に連れて戻るとこう言った。「陽平、先にベッドに行って。ママはおばさんがもう寝たか見に行ってくる」弥生が今夜はここで子どもたちと一緒に過ごすことがわかっているので、陽平は安心してうなずいた。「わかったよ、ママ」彼女は陽平をベッドの真ん中に寝かせ、ひなのと彼に布団をかけた後、靴を履いて外に出た。まず千恵の部屋へ向かい、しばらくノックしたが反応がなかった。「千恵?」呼びかけても応答がないため、弥生はドアを開けて中を確認した。やはり部屋には誰もおらず、千恵はどこかへ行ってしまっていた。弥生は唇をきゅっと引き締め、玄関へ向かうと、千恵が外出する際に履いていた靴がなくなっているのに気づいた。彼女がソファに
千恵はそれ以上何も言わなかったが、弥生は千恵の意味をすぐに理解した。彼女は唇を引き結び、スマホをしまい込んだ。確かに、他人のことに口を出しすぎるべきではない。しかし......瑛介と奈々が一緒にいることを知っている以上、自分の友人にそれを伝える責任があると彼女は思った。もともとは、翌朝起きてから千恵にこの件を説明しようと考えていた。だが、千恵は家を飛び出して行ってしまったのだ。考えを巡らせた後、弥生は千恵にメッセージを送ることにした。「話したいことがあるんだけど。電話してもいい?」しかし、このメッセージを送った後も、千恵からの返信はなかった。弥生は根気よくさらに2分ほど待ったが、それでも返信が来ない。仕方なく電話をかけてみることにした。冷たい自動音声が聞こえて、弥生の心に暗い影を落とした。彼女はソファから勢いよく立ち上がった。何か問題が起きたのか、それとも意図的に自分を避けるために電源を切ったのか?弥生は判断がつかなかった。人は一人の時間が必要であり、他人と適切な距離感を保つべきだと分かっている。しかし、何もしないで休もうとするのも難しい。それでも、千恵が電話を切る前に言った言葉を思い返し、このタイミングで何か行動を起こせば、かえって千恵の不愉快を買うかもしれないと考えた。彼女と千恵の付き合いはそれほど長くないが、関係はとてもいい。この友情を壊したくないという思いが確かに強かった。弥生は葛藤を飲み込むようにして衝動を抑えて、寝室に戻って横になった。ベッドでは、陽平が彼女の帰りを待っていた。彼女が戻ると、陽平はすぐに布団の中で隣のスペースに体を寄せて、小さな手でベットを軽くたたきながら言った。「ママ」弥生は複雑な気持ちを抱えたままコートを脱いて、彼の隣に横たわった。彼女が枕に頭を置くや否や、小さな体が彼女の腕に潜り込み、抱きついてきた。陽平は小声でささやいた。「ママ、なんか悩み事があるの?」その言葉に弥生は一瞬ハッとして、申し訳なさそうに陽平を見つめた。自分の感情がこんなにも早く彼に気付かれてしまうとは思わなかった。陽平とひなのは双子だが、彼が兄であるせいか、特に気遣いができる子だった。弥生の些細な感情の変化もすぐに察知して、まるで大人のように彼女の冷たさや温かさを
弘次の手はとても温かくて、その温度が伝わってきた。弥生はまずその温かさを感じた。次に、彼に指摘されて初めて、自分が慌てていて薄着のままだったことに気づいた。「弘次、聞いて。千恵が出かけたまま戻らないの。さっきも彼女に電話をかけたけど、全然出ないのよ。電源を切って私を避けているのか、それとも......」その先の言葉は弥生が口にする前に、弘次は何を言いたいのかすぐに察した。彼女の手足が冷え切っているのを見て、弘次はため息をついた。「分かった。この件は僕に任せて。すぐに友作を呼ぶから。それから一緒に彼女を探しに行こうか?」「一緒に?」「いや、私は行かない」弥生は首を横に振った。「もし私が彼女に見つかったら......」千恵は自分の行動に干渉されたと感じるだろう。弘次は彼女の意図をすぐに理解して、優しく答えた。「わかった。じゃあ、すぐに手配する」弥生はその言葉に安堵の表情を浮かべた。「ありがとう」「それじゃあ、まず服を着ようか。このままじゃ風邪を引いてしまうよ」問題が解決しそうだとわかり、弥生は部屋に戻りセーターを一枚着込んだ。彼女が着替えを終えて戻ってくると、弘次はちょうど電話を切ったところだった。「それで、友作が聞いてるんだけど、彼女のいる場所がどこかわかる?」「場所?」弥生は少し考え、助けを求めている以上隠す必要もないと感じ、千恵が向かったホテルの名前を教えた。「こんな夜中に、彼女はなんでそこに行くんだ?」弘次は、弥生が何か助けを求めていると知って、事情を聞く前に駆けつけたため、細かい状況は知らなかった。弥生は、今夜起きたことを一通り話した。弘次はしばらく沈黙した後、低い声で尋ねた。「それで......彼に会ったのか?」弥生は一瞬沈黙し、気まずそうな表情を浮かべたが、数秒後に頷いた。「ええ、会ったわ」彼女が平静を保ち、特に動揺した様子がないのを見て、弘次も少し安心したようだった。しかし、彼は何かを思い出したようで、少し迷いながら聞いた。「友作が言ってたけど、会場から男性用のコートを持って帰ってきたって本当?」この質問に、弥生はすぐさま否定した。「青いコートのこと?あれは彼のものじゃないわ。今回のオークションを主催した福原さんが貸してくれたのよ」
「彼は私のことを配慮してくれただけだから、責めないであげて」と弥生は言った。弘次はそれを聞いて、意味深そうに微笑んだ。「おそらく、未来のもう一人の上司が他の人に取られてしまうのを恐れたんだろう」この言葉は、またしても明確な意味を含んでいた。「それで、また瑛介と会って、どんな感じ?」弘次の質問は率直だった。弥生は思わず顔を上げて彼を見た。「ごめん、ちょっと失礼だった。ただ、もう5年が経って、あなたもきっと変わっただろうと思って」そうだ、もう5年も経ったのだ。こんなに長い時間を経て、自分がまだ何かを引きずっているなんてことがあるだろうか?そう思うと、弥生は少し微笑み、穏やかに答えた。「いいえ、失礼だとは思わないわ。聞きたいなら何でも聞いて。今の私にとって、彼はもう赤の他人よ」もしまだ何かの未練があるとしたら、それこそ彼女が救いようのない愚か者ということだろう。「そうか」弘次はその言葉を聞いた後、信じたかどうかはわからないが、彼女の髪を軽く撫でた。「気持ちを整理できてよかった。あなたが過去に縛られているんじゃないかと心配してた」「そんなことあるわけないでしょ」弥生は微笑んだ。二人はこの話題をこれ以上続けなかった。お互いに、この話題を深掘りするのは適切ではないことをわかっていた。弘次は周囲を見回し、彼女の肩に手を置いて、そっと押すように促した。「さあ、もうちょっと寝るか。ここは僕が見てるから、彼女に何かあったらすぐ知らせるよ」「でも......」弥生は少し躊躇った。「一人で見るなんて、ごめんね。それなら......」しかし、彼女が言い終わる前に、弘次は彼女を部屋へ押し込んだ。弥生が何か言おうと口を開くと、弘次は彼女の唇に指を軽く当てた。「静かに」弘次は低い声で、まるで静かに響くチェロの音のような落ち着いたトーンで言った。「ひなのと陽平を起こさないように。早く中に入って」彼の指の腹から伝わる熱が、彼女の唇に火をつけたかのようだった。気がつくと、弥生は慌てて後退しようとした。しかし、弘次はすぐに手を離し、その視線も澄み切っていた。まるで先ほどの行動が彼女を黙らせるためだけのものだったかのようで、悪い意図は感じられなかった。考えすぎているのは、どうやら自分だけのようだ。
彼女はそのことを考えながらドアを開け、裸足のまま走り出た。リビングに向かって駆け出そうとしたところ、予想もしなかったことに、訪ねてきた弘次の胸にまっすぐぶつかった。弘次も突然のことに驚いたのか、彼女に引っ張られるように後ろへ2歩下がってようやく体勢を立て直した。「どうした?」彼は弥生の腰を支えて、彼女が倒れないようにしっかりと立たせた。弥生はそれを気にぜず、反射的に尋ねた。「千恵は?帰ってきた?」それを聞いて、弘次は思わずため息をついた。「そんなに急がなくていいよ。ちょうどその件を伝えに来たところだ」弥生はようやく落ち着きを取り戻して、2歩後ろに下がって彼を見つめた。弘次は彼女が靴も履いておらず、昨夜と同じ服を着ていることに気づいたが、彼女はこれを聞かない限り安心しないだろうと考え、話を簡潔にまとめることにした。「彼女は大丈夫だよ。特に何も起こらなかった。うちのスタッフがホテルで彼女を見守って、先ほど戻ってきた」「ホテルで見守ってた?」「そうだ」「どうやって見守ったの?彼女はホテルの中に入ったの?」外出の際、部屋のカードキーを持っていなかったため、普通なら部屋に入ることはできないはずだ。弘次は彼女を見つめ、弥生の表情をじっと観察していた。しばらくしてから、彼は薄く笑った。「もし彼女が部屋に入っていたとしたら、あなたはどんな気持ちになる?」その言葉を聞いて、弥生は一瞬固まった。次の瞬間、彼女の表情は冷たくなった。「そんな風に言って、面白いと思う?」弘次はまだ笑みを浮かべていたが、彼女が顔を曇らせたのを見て、その笑みは消えた。「いやいや、そんなつもりじゃなかった」「昨夜からずっと、君は私を意図的に何か言い続けているじゃない?」弘次は少し間を置いて、それから彼女を真剣に見つめた。「そうだとしたら、それは僕が緊張しているからだ。大事に思っているから、そしてどうしようもないからだ。だから、こんな方法であなたの心が彼に戻っていないかを確かめたかったんだ。僕にまだチャンスがあるのかを知りたかった」その言葉に、弥生は不意を突かれたような気分になった。「私......」「もういい。彼女が安全だってわかったんだから。ねえ、ちゃんと服を着てよ」弥生は自分が着ている薄い寝間着
最初、千恵はインターフォンを2回鳴らしたが、部屋の中からは何の反応もなかった。彼女は仕方なくその場で辛抱強く待つことにした。どれくらい待ったのかもわからず、何回インターフォンを押したのかも覚えていない。ようやく扉が開いた。扉の向こうには、端正な顔立ちの男性が立っていた。目は冷たく鋭く光っており、寝起き特有の不機嫌さを漂わせ、全身からは冷気を放っていた。その視線が彼女に向けられた瞬間、千恵は凍りつくような寒気を覚えた。「こ、こんにちは......」しかし、その直後......バン!扉は無愛想にも勢いよく閉じられた。千恵は扉にぶつかりそうになり、鼻を押さえながら立ち尽くした。しばらくして、彼女は我に返り、再びインターフォンを押した。今度は2回鳴らしたところで、再び扉が開いた。「何の用だ?」瑛介は冷たく問いかけた。彼は目の前の女性が誰なのか一目で思い出した。昨夜、バーで彼にしつこく絡んできた女性だ。彼は唇を一瞬引き締めながら、冷ややかな目で彼女を見た。まさかこの女性が、バーでの迷惑行為だけでは足りず、今度はホテルまで追いかけてくるとは思いもしなかった。千恵は慌てて頷き、扉を閉められないうちに中へ入ろうとしたが、瑛介はすぐに手を伸ばして扉を押さえ、冷たい表情のまま彼女を遮った。「......あの、まず中に入れてくれませんか?ちょっと話がありまして」「ここでいい」瑛介は冷たく言い放った。千恵は彼の無情さに驚いたが、よく考えてみると、これは恐らく彼がまだ昨夜の状況を把握していないためだと思った。それで彼女は決意して、話を始めた。「昨夜、お兄さんが酔っ払っていたので、私がこのホテルまで連れてきたんです」その言葉に瑛介は一瞬動きを止めた。「それと、部屋代も私が払いました」千恵は少し照れ笑いを浮かべながら付け加えた。「もちろん、こう言ったのは、お金を返して欲しいわけじゃなくて、ただ、私のことを誤解して欲しくないだけです」酔っていた自分を助けたと言われても、瑛介はすぐには信じられなかった。ふと昨夜のことを思い返し、ある場面が脳裏によぎった。混乱の中で、彼はバーで魂が揺さぶられるような見覚えのある姿を目撃した気がした。だが、目を覚ました今、目の前にいるのはこの見知らぬ女性であり、彼女が
千恵は番号を記録し終えたが、瑛介が「助手の番号だ」と言った後にすぐ立ち去ろうとしたため、彼女は慌てて彼を追いかけた。瑛介がエレベーターに向かうのを見て、千恵は必死に声をかけた。「待って!私が欲しいのは報酬じゃなくて、ただ友達になりたかったなの!お願いだから、連絡先を教えてくれませんか?」瑛介は大股で進み、エレベーターの前で無表情に立ち止まった。千恵は唇を噛みしめ、困惑した表情で彼を見つめていた。「お願い、本当に迷惑はかけませんから。私はただ......ただ少し話がしたいだけなんです」瑛介は冷たく彼女を一瞥して、スーツの一番上のボタンを留めると、低い声で警告するように言った。「もし僕に何らかの思惑がありましたら、今すぐその考えを捨てた方がいいと思います。さもないと、後でどうなるか保証できませんよ」ちょうどその時、エレベーターが到着した。瑛介は何の感情もない表情でエレベーターに乗り込んだ。千恵は彼の冷たい言葉に対してどうしようもない気持ちになったものの、彼がエレベーターに入ると、無意識に足が動き、後に続いてエレベーターに入った。エレベーター内には二人だけがいた。千恵は、彼女が入ってきた瞬間に彼の体から冷気が強まったのを感じ取った。どんなに彼が好きでも、ここまで冷たく拒絶された経験は初めてだった。男性の冷酷な目と冷徹な声は、彼女をまるで無価値なゴミのように扱った。彼女の自信は一瞬で打ち砕かれ、二度と言葉を発する勇気が湧いてこなかった。仕方なく彼の隣で無言のまま立ち尽くし、ただエレベーターが停まるのを待つしかなかった。その時間は、一秒でも永遠のように感じられた。どれだけ経ったのか、ようやくエレベーターが一階に到着した。千恵は彼の後についてエレベーターを降りた。エレベーターの扉の前で、瑛介は一瞬立ち止まって、振り返りもせず冷たく言った。「もう追いかけないでください」千恵はその場で硬直し、唇を噛みしめて何も言わなかった。その時、彼女の手元の携帯電話が鳴り響いた。同時に、瑛介は彼女に背を向け、そのまま立ち去ろうとした。画面を見ると、弥生からの電話だった。千恵は受話器を取り、力なく応答した。「弥生......」電話越しに千恵の声を聞いた弥生は、ようやく安堵の息をついた。「ようやく電話に出
瑛介は子供たちを家に連れて帰ったあと、わざわざシェフを呼んで美味しい料理を作ってもらい、さらにおもちゃも用意させていた。まだ二人の好みがはっきり分からなかったのと、自分でおもちゃを買ったことが一度もなかったこともあって、とにかく手当たり次第にいろいろな種類を揃えたのだった。二人の子供たちはそんな光景を見たことがなく、部屋に入った瞬間、完全に呆気に取られていた。そして二人は同時に瑛介の方へ顔を向けた。ひなのが小さな声で尋ねた。「おじさん、これ全部、ひなのとお兄ちゃんのためのなの?」「うん」瑛介はうなずいた。「君たちのパパになりたいなら、それなりに頑張らなきゃな。これはほんの始まりだよ。さ、気に入ったものがあるか見ておいで」そう言いながら、大きな手で二人の背中を優しく押し、部屋の中へと送り出した。部屋に入った二人は顔を見合わせ、ひなのが小声で陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、これ見てもいいのかな?」陽平は、ひなのがもう気持ちを抑えきれていないことを分かっていた。いや、実は自分もこのおもちゃの山を見て心が躍っていた。しばらく考えてから、彼はこう言った。「見るだけにしよう。なるべく触らないように」「触らないの?」ひなのは少し混乱した表情を見せた。「でも、おじさんが買ってくれたんでしょ?」「確かにそうだけど、おじさんはまだ僕たちのパパじゃないし......」「でも......」目の前にある素敵なおもちゃの数々を、ただ眺めるだけなんて、あまりにもつらすぎる。ひなのはぷくっと口を尖らせ、ついに陽平の言葉を無視して、おもちゃの一つに手を伸ばしてしまった。陽平が止めようとしたときにはもう遅く、ひなのの手には飛行機の模型が握られていた。「お兄ちゃん、見て!」陽平は小さく鼻をしかめて何か言おうとしたが、そこへ瑛介が近づいてきたため、言葉を呑み込んだ。「それ、気に入ったの?」瑛介はひなのの前にしゃがみ、彼女の手にある飛行機模型を見つめた。まさかの選択だった。女の子用のおもちゃとして、ぬいぐるみや人形もたくさん用意させたのに、彼の娘が最初に手に取ったのは、まさかの飛行機模型だった。案の定、瑛介の質問に対して、ひなのは力強くうなずいた。「うん!ひなのの夢は、パイロットになることなの!」
とにかく、もし彼が子供を奪おうとするなら、弥生は絶対にそれを許さないつもりだった。退勤間際、弥生のスマホに一通のメッセージが届いた。送信者は、ラインに登録されている「寂しい夜」だった。「今日は会社に特に大事な用事もなかったから、早退して学校に行ってきたよ。子供たちはもう家に連れて帰ってる。仕事終わったら、直接うちに来ていいよ」このメッセージを見た瞬間、弥生は思わず立ち上がった。その表情には、明らかな驚きと怒りが浮かんでいた。だがすぐに我に返り、すぐさま返信した。「そんなこと、もうしないで」「なんで?」「君が私の子供を自宅に連れて行くことに同意した覚えはない」相手からの返信はしばらくなかったが、しばらくしてようやくメッセージが届いた。「弥生、ひなのちゃんと陽平くんは、僕の子供でもある」「そう言われなくても分かってる。でも、私が育てたのよ。誰の子かなんて、私が一番よく分かってる」「じゃあ、一度親子鑑定でもしてみるか?」「とにかく、お願いだから子供たちを勝手に連れ出さないで」このメッセージを送ってから、相手は長い間返信を寄こさなかった。弥生は眉をわずかにひそめた。もしかして、彼女の言葉に納得して子供たちを連れて行くのをやめたのだろうか?だが、どう考えてもおかしい。瑛介は、そんなに簡単に引き下がる男ではない。不安が募る中、まだ退勤時間まで15分残っていたが、弥生はもう我慢できず、そのまま荷物をまとめて早退することに決めた。荷物をまとめながら、弥生は心の中で瑛介を罵っていた。この男のせいで、最近はずっと早退ばかりしている。まだ荷物をまとめ終わらないうちに、スマホが再び震えた。ついに、瑛介から返信が届いた。「子供は車に乗ってる。今、家に帰る途中」このクソ野郎!弥生は怒りに震えながら、電話をかけて文句を言おうとしたその瞬間、相手からまた一通のメッセージが届いた。「電話するなら、感情を抑えて。子供たちが一緒にいるから」このメッセージを見た弥生は言葉を失った。腹立たしい!でも子供たちのことを考えると、彼女は何もできない自分にさらに苛立った。彼のこの一言のせいで、「電話してやる!」という気持ちは完全にしぼんだ。電話しても意味がない。どうせ彼は電話一本で子供たち
しばらくして、弥生はようやく声を取り戻した。「......行かなかったの?」博紀は真剣な面持ちでうなずいた。「うん、行きませんでした」その言葉を聞いた弥生は、視線を落とし、黙り込んだ。彼は奈々に恩がある。もし本当に婚約式に行かなかったのだとしたら、それはまるで自分から火の中に飛び込むようなものではないか?でも、行かなかったからといって、何かが変わるわけでもない。「当時は、多くのメディアが現場に詰めかけていました。盛大な婚約式になるだろうと、皆がそう思っていたからです。でも、当の主役のうち一人が、とうとう姿を現さなかったんですよ。その日、江口さんは相当みっともない状態だったと聞いています。婚約式の主役が彼女一人だけになってしまい、面子を潰されたのは彼女個人だけでなく、江口家全体にも及んだそうです。ところが、その現場の写真はほとんどメディアに出回ることはありませんでした。撮影されたものは、すべて削除されたらしくて......裏で何らかのプレッシャーがかかったのかもしれませんね」そこまで聞いて、弥生は少し疑問が浮かんだ。「もしかして......そもそも婚約式なんて最初からなかったんじゃないの?」彼女の中では、瑛介が本当に行かなかったなんて、どうしても信じがたかった。あのとき彼が自分と偽装結婚して、子供まで要らないと言ったのは、心の中に奈々がいたからではなかったのか?それなのに、奈々のほうから無理やり婚約に持ち込もうとして、結局うまくいかなかったって......「最初は、みんなもそうやって疑ってたんですよ。でも、あの日実際に会場にいたメディア関係者の話によると、現場は確かにしっかりと装飾されていて、かなり豪華な式場だったそうです。ただ、どこのメディアも写真を出せなかった。すべて封印されて、もし誰かが漏らしたらクビになるっていう噂まで立っていたんです。でもその後、思いがけないことが起きましてね......たまたま近くを通りかかった一般人が、事情を知らずに会場の様子を何枚か写真に撮ってネットに投稿しちゃったんです。それが一時期、すごい勢いで拡散されたんですけど......すぐに削除されてしまいました」「写真に何が写ってたの?」博紀は噂話を楽しむように笑った。「僕も、その写真を見たんです。ちょうど江口さんが花束を抱え
博紀はにやにやしながら言った。「あれ、社長はまったく気にしていない様でしたけど、ちゃんと聞いていらしたんですね?」彼女は何度か我慢しようとしたが、最終的にはついに堪えきれず、博紀に向かって言い放った。「クビになりたいの?」「いやいや、失礼しました!ちょっと場を和ませようと思って冗談を言っただけですって。だって、反応があったからこそ、ちゃんと聞いてくださってるんだって分かったんですし」弥生の表情がどんどん険しくなっていくのを見て、博紀は慌てて続けた。「続きをお話ししますから」「当時は誰もが二人は婚約するって思ってたんです。だって、婚約の日取りまで出回ってたし、中には業界の人間が婚約パーティーの招待状をSNSにアップしてたんですよ」その話を聞いた弥生の眉が少しひそめられた。「で?」「社長、どうか焦らずに、最後までお聞きください」「その後はさらに多くの人が招待状を受け取って、婚約会場の内部の写真まで流出してきたんです。南市の町が『ついに二人が婚約だ!』って盛り上がってて、当日をみんなが心待ちにしてました。記者が宮崎グループの本社前に集まって、婚約の件を聞こうと待機してたんです。でも、そこで宮崎側がありえない回答をしたんです。『事実無根』、そうはっきりと否定されたんですよ」弥生は目を細めた。「事実無根?」「そうなんです。宮崎さんご本人が直接出てきたわけではありませんが、会社の公式な回答としては、『そんな話は知らない、まったくのデマだ』というものでした」博紀は顎をさすりながら続けた。「でも、あの時点であれだけの噂が飛び交っていたので、その回答を誰も信じようとしなかったんです。その後も噂はさらに加熱していって、会場内部の写真が次々と流出しましたし、江口さんのご友人が彼女とのチャット画面まで晒して、『婚約の話は事実です』なんて証言までしていたんですよ。そのとき、僕がどう考えていたか、社長はわかりますか?」弥生は答えず、ただ静かに博紀を見つめていた。「ね、ちょっと考えてみてください。宮崎さんはあれほどはっきりと否定しているのに、それでもなお婚約の噂が止まらないって、一体どういうことでしょうか。それってもう、江口さんが宮崎さんに『婚約しろ』と無言の圧力をかけているようにしか見えなかったんですよ。皆の前で『私たち婚
もともと弥生の恋愛事情をネタにしていただけだったが、「子供」の話が出た途端に、博紀の注目点は一気に変わった。「社長がお産みになった双子というのは、男の子ですか?それとも女の子ですか?」弥生は無表情で彼を見た。「私じゃなくて、友達の話......」「ええ、そうでしたね、社長の『ご友人』のことですね。それで、そのご友人がお産みになった双子というのは、男の子でしょうか、それとも女の子でしょうか?」「男の子か女の子かって、そんなに大事?」「大事ですよ。やっぱり気になりますから」「......男女の双子よ」「うわ、それなら、もし元ご主人がお子さんを引き取ることに成功したら、息子さんと娘さんの両方が揃ってしまうじゃないですか!」「友達の元夫ね」「そうそう、ご友人の元ご主人のことですね。言い間違えました」「でも瑛介......じゃなくて、社長のご友人は、どうして元ご主人が子供を『奪おうとしている』と考えていらっしゃるのでしょうか?一緒に育てたいという可能性は、お考えにならなかったのですか?」「一緒に育てる?冗談を言わないで。それは絶対に無理」「なんでですか?」博紀は眉を上げて言った。「その元ご主人......いえ、社長のご友人の元ご主人というのは、かなりのやり手なんでしょう?そんな方が一緒に育てるとなれば、むしろお子さんにとっては良いことなのではありませんか?」「いいえ、そんなの嘘よ。ただ奪いたいだけ、奪う」弥生は少し固執するように、最後の言葉を繰り返した。「彼にはもう新しい彼女がいるのよ。協力して育てるなんて全部ありえない。ただ子供を奪いたいだけなの」「新しい彼女?」その言葉を聞いたとき、博紀はようやく核心にたどり着いた気がした。彼はにこやかに言った。「つまり社長はこうお考えなんですね。宮崎さんにはすでに新しいパートナーがいる。だから、彼が子供を奪おうとしているのではないかと。違いますか?」弥生は彼をじっと見つめた。何も答えなかったが、その表情が全てを物語っていた。しかも、彼女自身は気づいていないようだったが、博紀はもう「社長の友達」などとは言わなくなっていた。次の瞬間、彼女は博紀が苦笑いするのを見た。「もし社長がご心配なさっているのがそのことでしたら......気になさらなくて大丈夫ですよ
「うん」瑛介は冷たく一声だけ応えた。「じゃあ、社長......会社に戻りましょうか?仕事が山積みでして、このままだと......」その後の言葉を健司は口にしなかったが、瑛介自身も理解していた。彼は唇の端を真っすぐに引き締め、最後に視線を外して言った。「会社に戻ろう」弥生は地下鉄の駅に入ってしばらくしてから、思わず後ろを振り返った。誰もついてきていないのを確認して、ほっとしたと同時に、心のどこかでほんの少しだけがっかりしている自分に気づいた。だがその淡い感情もすぐに押しやり、弥生は素早く切符を買ってその場を離れた。その後、会社ではずっと気分が上がらず、会議中でさえどこかぼんやりとして、心ここにあらずの状態だった。ぼーっとしながら会議を終えた後、弥生のあとをついて出てきた博紀が、思わず彼女の前に立ちふさがった。「社長、ここ数日、少しご様子がおかしいようですが、大丈夫ですか?」その言葉に弥生は少し立ち止まったが、彼の問いには答えなかった。「社長、何かありましたか?僕でよければお話を伺いますが......」弥生は首を振った。「いいわ。私のことを話したら、きっと明日にはみんなに知れ渡ってるでしょうから」「それはあんまりですよ。確かに僕はゴシップ好きかもしれませんが、口は堅いつもりですよ。もし僕が軽々しく話すような人間なら、今ごろ社長と宮崎さんのことは社内中に広まっているはずでしょう?」そう言われて、弥生は反論できなかった。会社の中で彼女と瑛介のことを知っている人は、実際ほとんどいない。以前、あの新入社員が偶然目撃したのは例外として、それ以外は本当に誰も知らなかった。博紀は確かに噂好きではあるけれど、口は堅い。彼女の悩みを、誰かに相談したい気持ちはずっとあった。年老いた父には、あまり頻繁に頼れないし......博紀の年齢を思い出しながら、弥生は小さく声を出した。「ねえ、もし君が奥さんと離婚したとしたら......」「え?」博紀はすかさず遮った。「『もし』なんてありませんよ。僕はうちの妻と絶対に離婚なんてしませんから!うちはとても仲良しなんですから!」博紀はにっこり笑って言った。「僕からのアドバイスとしては、『友人』の話ということにして切り出されたらいかがでしょうか?」友人
しかし陽平は前に進まず、ためらいがちにその場に立ち尽くしていた。「ひなのはもう車に乗ったわよ。何を心配しているの?ひなのを置いていくわけないでしょう」弥生はそう言って、自ら陽平の手を取り、車の方へと歩き出した。瑛介がひなのを抱き上げて車に乗せた仕草は、確かに弥生の心を揺さぶった。瑛介が子供を連れて行こうとする限り、自分も無視することなどできない。弥生が車に乗り込むのを見届けると、瑛介は薄い唇をゆったりと持ち上げ、柔らかく美しい弧を描いた。しばらくして、ひなのを自分の腕に抱きかかえた。今日は自らハンドルを握ることはなく、運転席には前方に運転手が控えていた。弥生と陽平が乗車したのを見届けると、外で控えていた健司も続いて乗り込んだ。健司が車に乗ってからは、視線が完全に弥生と二人の子供たちに釘付けだった。この二人の子が瑛介の子供だと知ったときは、本当に驚愕した。いつもクールな瑛介の様子からして、彼は一生独身を貫くと思っていたのに、まさか、子供が二人もいたなんて......しかもなにより、未来の社長夫人があまりにも美しすぎる......そんなことを考えていると、健司はふっと冷たい視線が自分の顔に突き刺さるのを感じた。その視線の先をたどると、瑛介の氷のような警告の視線とぶつかった。その目はまるで「弥生をどこ見ているんだ」と無言で告げているような、鋭く研ぎ澄まされた視線だった。健司はとっさに目を逸らすと、「……見てません」と、心の中で慌てふためきながら呟いた。朝食を終えると、瑛介は運転手に二人の子供を学校に送るよう指示した。学校に着くと、弥生はすぐに車を降りた。教師は二人が同じ車から降りてくるのを見て、少し驚いたような目でこちらを見た。昨日の弥生の怒りを見たその教師は、彼女の目を見ることすら恐れていた。きっとまた怒られるのを怖れているのだろう。昨日のことを思い出し、弥生は少し後悔の念にかられた。ちょうど謝ろうとしたそのとき、隣から瑛介の声が聞こえた。「行こう、会社まで送るよ」その一言で、弥生の頭の中の思考は瞬く間にかき消され、冷ややかに口角を引き上げると、彼の提案をきっぱりとはねつけた。「送らなくてもいい、自分で行くわ」瑛介は唇をきゅっと引き結んだ。「歩いて会社に行くつもりか?」「
たとえ弘次が本当に忘れていたとしても、友作が忘れるはずがない。......そう思い、今回の一件だけで弘次のことを疑う気持ちを完全に消すことは、弥生にはできなかった。彼女はソファに身を投げ出し、深く沈み込むようにして目を閉じた。翌朝。瑛介を避けるため、弥生はいつもより30分早く子供たちを連れて家を出た。朝食も外で済ませるつもりだった。彼を避ける完璧な計画だったはずなのに、マンションを出た瞬間、目に飛び込んできたのは、一台のストレッチ・リンカーンだった。その横で、健司が欠伸をかみ殺しながら立っていた。明らかに眠たそうで、ぼんやりしている。弥生が彼を見つけて数秒の間に、健司は連続して二回もあくびをした。三回目のあくびに入ろうとした瞬間、子供を連れて降りてくる弥生を見つけた。途端に眠気も吹き飛び、目が覚めたように弥生の方へ駆け寄ってきた。「霧島さん、おはようございます!」やばい......健司は数歩で彼女の進路を塞ぎ、元気いっぱいに言った。「今日は早いですね!道中、社長にそこまで早く来なくてもいいって言ったんですが、社長はきっと早く降りてくるはずだって......いやあ、さすが社長、読みが鋭いですね」そのとき、瑛介が車から降りてきた。「おじさん!」ひなのは大喜びで彼に向かって駆け出していった。......昨夜、自分と約束した話はもう全部忘れてしまったようだ。瑛介は膝を折り、ひなのを抱き上げた。今日はグレーのロングコートに、ネクタイとスーツを身にまとい、きちんとしていた。その腕の中のひなのは、コートを着ていて、まるでお餅のようにふわふわして可愛らしく、二人の並ぶ姿はとても雰囲気がよく、しかも顔立ちまで似ていた。弥生は目を閉じて、この光景を見ないようにした。「霧島さん、お嬢さんとお坊ちゃん、こんなに早くお出かけとは......まだ朝ごはんはお済みじゃないでしょう?」弥生は何も答えず、唇を固く引き結んだ。健司も彼女の無視に気づき、気まずそうに黙り込んだ。瑛介はひなのを抱いたまま弥生の元に近づき、弥生の隣で少し後ろに下がっている陽平に視線を落とした。そして再び、弥生の顔を見つめた。「朝ごはんを買いましょう」弥生はその場でじっと立ち止まり、冷たい視線で瑛介を見返した。瑛介はその
その言葉を聞いて、弥生は思わずぎょっとした。ひなのがそんなことを思っていたなんて......彼女は少しだけ眉をひそめたが、すぐに表情を緩め、しゃがんでひなのに手招きをした。ひなのは素直に歩み寄ってきて、弥生の胸にすっぽりとおさまった。「ママ」弥生は小声で様子を探るように尋ねた。「さっきの言葉......誰かに教えてもらったの?」ひなのは小さな声で答えた。「誰にも教えてもらってないよ、ママ。ひなのが自分で思ったの。ママ、おうちに帰ってすぐに窓のところに行って、寂しい夜さんを見てたでしょ?」「違うわ。ママはただ......カーテンを閉めに行っただけよ」「でも、ママがカーテンを少しだけ開けて、こっそり覗いてるの、見えちゃったよ?」この子、どうして、いつも瑛介の味方ばかりするの?そう思った弥生は、ひなのの柔らかいほっぺを指でむにっとつまんで、軽くたしなめた。「ひなの、最近ママの言うことに逆らうことが多くなってない?」ひなのの顔は元々もちもちしていて、弥生につままれたことでさらにピンク色に染まり、とても可愛らしかった。ぱちぱちと瞬きをして、純真な声で言った。「でも、ママ......ひなの、ほんとのこと言っただけだよ?」......まあ、まだ五歳だし、言っても通じないかもね。そう思いながらも、弥生は諦めきれず、でも諭すような口調で続けた。「ひなの、ママとお約束できるの?」「どんな約束?」「これからはね、寂しい夜さんの前では、ママが言ったことがすべて正しいって思って、ママと反対のことを言っちゃダメよ」ひなのはすぐに答えなかった。少し不思議そうな顔で訊き返してきた。「ママ、寂しい夜さんのこと......好きじゃないの?」ついに来た、この質問......弥生はすかさずうなずいた。「うん」「じゃあ、寂しい夜さんのことが嫌いなの?」この質問には、すぐには答えられなかった。 「嫌い」と言い切ってしまったら、娘の心にどんな影響があるのかと心配していた。しばらく考えた末、弥生はやさしく問いかけた。「ひなの、最近悠人くんと仲良くしてるでしょ?好き?」「うん、好き!」「じゃあ、前の席にいる男の子は?あの子のことも好き?」ひなのは少し考えて、首を横に振った。「あの